森の距離

ある時に、学校という単位ができた。大多数の人はいいのかもしれないけど、自分は本来の距離感を維持できないと怖いわけです。森の中だったら、ちょっと引いておけばいいんだけれど、箱に閉じ込めて、逃げられない。で、何が起きるかっていうと、本来の距離が保たれていないわけだから、オーダーをつくろう、規律をつくろうとする。
これはフラミンゴでもなんでも、集団の動物の中で、あたり前のように生じてくることで、いわゆるヒエラルキーをつくる。そのヒエラルキーが、うまくつくれればいいと思うけど、必ずしもいいわけではない。するとその中で、いじめもできてくる。ジャイアンが出てくるし、スネ夫がいて、いじめられるのび太も出てくる。それが、微笑ましいと言う人もいるかもしれないけど、じつは微笑ましいばかりじゃない。その中でつらい思いをする人もいる。

その境界が引き起こす、一番悪い例というのが牢屋です。牢屋の中というのは牢(ろう)名主(なぬし)がいて(いまでも刑務所の中で同じことが起こっているというけど)、その中で上下関係が生まれ、そこに閉じ込められたら人間はそうならざるをえない。その境界がなくなったらどうなるんだろうって、そこが、『ふじようちえん』で試みたことだったと思います。

ふじようちえんの園長先生は「この部屋が嫌なら、出て行っていいんだよ」って言います。どうせまるいんだから、ぐるっと回って戻ってくるんだからって。回って戻ってくるのは、自分のチョイス。これが大事なことで、自分の適切な距離感を自分で選んでいる。そうすると、最初に行く前の時とは違う。自分で選んだものだから。ねぇ、その中で、自分で自然な距離感を保ったりできるわけです。

現代の社会の中では、それがとても難しくなっています。昔から寺子屋とか、そういうところではあったかもしれないけど、全員の人間が寺子屋に行っていたわけじゃない。坂本龍馬は苦労して、鼻たれて、いじめられたわけだし。そういうのがあったわけです。それがどこに生じてくるかっていうと、境界を作って人を管理する、そこに出てくると思うわけです。
どうやったら自然に人間の距離感を保つことができるわけだろう。ふじようちえんの計画の中で、それを大事にしました。これはモンテッソーリーの教育の基本で、人を管理するんじゃなくて、自分で選ばせる。そのためには、距離感がものすごく大切なんですね。