かくれた次元
私たちのプロジェクトでよく取り上げられる『ふじようちえん』についても、すごく議論していたのは、外と中の境界の話、それから教室と教室の境界の話です。
まず、教室の境界となる壁をどうしょうかという話ですけど。ふじようちえんの室内は全部ツーツー。扉を開けたら締めるのがめんどくさいから、開けっ放しの状態のままでいいと。隣の教室との間も、背の低い家具が置いてあるだけで、隣に行こうとすれば、子どもは簡単にするっと行けちゃうわけです。
ふつうは「手を膝に置いて、座ってなさい」と言いますが、ふじようちえんの園長先生の場合、ほかの所に行っている子は、「まだ、準備ができていないんだよ」「いいんだよ、行かせてあげて。どうせ戻ってくるんだから」と。戻ってくる時は、自分の意思で戻ってくる。閉じ込められていると、自分の意思ではないけれど、自由にしてあると、自分でそれをやりたいか、やりたくないかの意思の違いで、それが起きているのです。
これがどういうことかというと、人間というのは隠れた距離感があるんです。
エドワード・ホールは『かくれた次元』という本の中でそう言っています(じつはこの本には人種差別なんかの話が入っていて、現在は出版ができなくなっていますが、本の内容は素晴らしくて)。それで彼は、人間というのはいろんな性格があって、地域性があって、端的に言うと、人間には社会距離とか、逃走距離があって、ある距離になってくると、人間はいろんな反応をするようになると。これは動物でも同じ。たとえばライオンは人が近寄っていくと警戒する。もっと近づいていくと、逃げる。これを逃走距離といって。さらに近づいていくと、臨界距離といって攻撃してくる。
ではフラミンゴは、みんなどうしてかたまっているのか。それは不安感があるからで、あれはフラミンゴの社会距離の取り方です。動物でも人間でも、適切な社会距離があるんです。
人間の社会距離は、人と完全に離れては暮らせません。でも、近すぎてもよくない。また、人によってその社会距離は異なり、年齢によっても異なってくるんです。
人の成長というプロセスから見ると、赤ん坊というのはものすごく近眼で、せいぜい20~30㎝くらいしか見えていない。それが成長とともに、視界はだんだんと広がり、自分にとってちょうどいい距離感を保つようになっていきます。母親との距離感はものすごく近い。他人の場合は1、2mくらいの距離感をとり、1、2m以内になると家族じゃないとおかしな関係の距離感になってしまいます。
これがね、森の中であれば、自由に自分の距離感が選べたと。人間には、いろんな多様な人がいて、すごく長い距離感が必要な人、短い距離が必要な人。そういうたくさんの多様な人たちがいて、できあがって、社会が森の中でできあがっていたはずだと。
コミュニティデザインの人と話をしていて、境界をつくるという方法に、ふたつのやり方があると。ひとつは壁をつくる。もうひとつは距離を保つ。
たとえば、1m先にボブサップがいたら怖いと思う。だけど10m先だったら、ボブサップだって人形と変わんないじゃない。その距離感がすごく大事で、どのくらいの距離感が適当と感じるか。
ライオンだって20mくらい離れていたら、あまり怖くない。近づいてきたら怖いけどね。犬と人間の関係だって同じだと思う。小さい犬が人間に対して吠えつくのは、やはり怖いからですよ。その時、適切な距離をどうやって保つかが、すごい大事だよねという話をしていました。